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えいり

影裏

 

・日浅…不気味すぎる…

ラストシーンの煙草を吸う日浅、あの目は松田龍平にしかできないなあと思う。煙草は、荼毘に付す煙の中に立っているようにも見える

 

・日浅の倫理観の無さ、人当たりの良さ、善悪の判断のつかなさ、人を取り込む蠱惑的な部分、独善的なところ、いろいろなハラ男っぽさ、口の悪さ、真面目に働く気のなさ、なんかすっっっっごい「こういう人地元にいる〜〜!!」って感じですごい。

フィクションであんまり見たことがない(けど、いる)質感の悪い人で新鮮。

終盤、日浅が映るたびに「厄災」の二文字がちらついた。

幸せなときでも見てんだよ、死はこちらを

日浅って「死」なのかもな。

屍の上に立ってるという彼は、(一時的には)いろいろな老人の死を食い物に生きていたし、きっと東京にいたころも他人を貪ることで生きてきたんだろう、

なんかそういう、影の生き方に全く心が動じず一緒に生きていける人間っているんだよな。

自然なのかも、厄災はこちらの都合なんて気にかけず、訪れ、災禍をもたらして、次の日には美しくきらめいている、…

美しい一面だけをみていれば幸せだけどっていう…

 

・水と火の描写はなんだ。

アパートの階段に残された煙草の吸い殻、

父と日浅の同じ煙草、

山火事の跡をわざわざ見に行く日浅、

河原で焚き火のあとを見つけるシーン、燃え終わったもの?

なんか不穏ではあるよな〜埋め火って言葉もあるし、もう一度日浅に会ったらまた燃え広がりそうな、そんな気がする、唯一残された手書きの文字に涙する人間が、完全に忘れられるわけがないんだよな〜と思う

https://gigazine.net/news/20200214-eiri-otomo-keishi-interview/

最後に信じるも信じないも選ばなかったっていうのは確かにな〜と思う。思い出と共に生きていく決意というか。それは埋め火を抱いて生きることでもあるんだけど。リアルやな

 

・お金借りに来る日浅ほんとに嫌すぎてだいぶこいつのこと嫌いになりそうになったけど、なんかすごい二面性だよな。一瞬カリスマっぽい雰囲気も、ヒッピーみたいな雰囲気もあるのに金の無心は真面目な顔でする。そんで煙草の吸い殻を捨てて帰るっていう…

 

・あとはあれか。今野の生活は執拗に(エロく)撮られてたけど、日浅の日常は全っっく出てこないんだよな。そこが日浅の妖怪っぽさを助長している

・ていうか言いたいのが、あの焚き火のシーンの日浅、今野を意識してませんでした???????「いきなり押し倒すんじゃなくて焦らすんだよ、前戯がうまくねえとな」みたいなこと言ってたとこ、大雨の日に今野がキスしたのはアレだったけど、今なら、みたいな心情が絶対あったじゃないんですか??あそこで今野が帰って、井上さんが来ちゃったからこの話はあれでおわりなんだよな。人生ってそういうチャンスの喪失の連続なのかもしれない。何の話だ。

桜の木を切る

「御法度」の終盤、沖田総司が桜の木を刀で斬りつけるシーンがある。

あれは何?とずっと思っていたところに「青い春」の桜並木である。初見は松田龍平は男社会狂わせ美人(feat.桜)を2作連続でやっとんのかいと思ってしまった

 

※これは人生で数度目の松龍ブームが到来していて好きな話をいろいろ絡めて話したいだけの文

 

男社会のなかで成熟した"男"にならずに死んだ惣三郎と、一人前に進むことを選んだ(んだよね?)九條、同じようなキャラクターに見えてもそこの違いがあって、両方見てよかったな〜と思う。

 

朝日高校は甲子園が終わった時期も、進路指導の時期も、卒業式の時期も満開の桜並木に囲まれている。非現実的に散り続ける桜の美しさは基本的にバイオレンスな作中において、異質なもの、

桜といえば、吉田秋生の「櫻の園」に、

桜並木に囲まれた女子校の生徒が、「桜の精は男なんだって」と聞いて「なんてグロテスクなの」という感想を語る場面がある。

自分が櫻の園を読んだのはもう10年くらい前のことで、当時はなんの疑いもなく受け止めていた。

よく考えたら桜の精が男というのは、あまりポピュラーな伝承ではないのではないか?

調べてみても西行桜くらいしか桜の精を男として扱う作品は無いように思えた。どちらかと言うと桜の化身は男を狂わせるものとして描かれている。そっちかい。

それで田代たちを狂わせた惣三郎の死と共に、桜が切られたことにも合点がいくし、朝日高校で1年(?)を通して桜が咲き続け、青木たちを狂わせていくことにもめちゃくちゃ納得ができる。

櫻の園のセリフのせいですごい遠回りしてたな …

 

青い春の桜は、別にそういう意図じゃないかもしれないけどね。普通に永遠の春としての象徴、そういうものだと思うけど、花はいつか枯れるのに、どうして咲く意味があるんだ、という問に対しての「咲くことに意味があるんです」という花田先生の答えを踏まえると、咲くけど実ることの無いソメイヨシノが、青木たちを捕らえて、学校を楽園と幻惑させる作用を持っているともいえるか?

 

みたいなことを青い春を観てからつらつら考えてて、ミッシェルのbgmにのせて詰襟の不良たちを描きたいだけの雰囲気映画やろとか思っててすみませんでした。何回も観るのはしんどい映画ではあるけれど、落ちている文脈や各個人の心情の変化を追っていくと噛み応えがある映画だな〜と思う。個人的にはかなり好きでした。

夏の

ヤンヤン夏の想い出、めちゃくちゃいい映画だった。

・"人生"すぎる。全人生を3時間でやっててすごい。

・中盤のNJ(パパ)の青春のやり直し、ティンティンのファティとの淡い関係、ヤンヤンの同級生の女の子へのさらに淡〜〜〜〜〜い眼差し、その重なりの美しさ〜〜〜

タイペイとアメリカと東京の時差の話をするとこも良かった。エモい。

・ずっとNJが芯の通ったかっこいい男として描かれてたのが救いだった。ていうかこの時のイッセー尾形かっこよすぎるな。大田という役が良すぎるのもあるけど(バーで悲壮を弾くシーン、車の中でNJと音楽の話をするシーン、トランプの位置を全部暗記してるシーン、全部かっこいいので)

・大人たちは借金はするし、嘘はつくし、恋愛にもそこそこだらしないし、で、起こっている事象としては意外と味が濃いのだけど、描き方は淡々としてて、映像のクリーンさもあって全然どぎつい感じになってないのが上品で好きだった。

台北の街も、90年代後期の東京も美しいな、この監督が撮ると

・雨、窓ガラスの反射や鳥の羽ばたき、雲の結合と蒸気、植物の成長、そういった日々目にするものの偶然の美しさこそが"本当"なのだという気がしてくる。

何か深刻なことが起こっているのに、大人がどうしてそんなに深刻になっているのか分からなくて、いつもと同じように景色を眺めるという瞬間が自分の子供の頃にもあった気がする。そういう現実から離脱する瞬間の美しさを切り取った空気感がある

「説明できない気持ちやすれ違う人の心の美しい欠片」みたいな話

・人生いいことばかりじゃない出来事ばかりあるけど、後味はどこか優しく一歩引いた、優しい諦念みたいな雰囲気なのがよい。

I saw the TV glow

備忘

 

テレビの中に入りたい、見た。

非常によかった。マディと過ごした土曜の夜の、魔法に包まれているような非現実的な数瞬

オタクっぽい人たちのオタク青春の話だと思って見に行ったらいい意味で全然違う痛みがある映画でウオオオ…となった。

オーウェンの首筋にゴーストの入れ墨を描くシーンが非常に美しくて好きでした。それを洗いながしてしまうのもいいよね〜

マディとオーウェンの学生期のヒリヒリした関係にもいいね〜と思いながら見てたのに、全然もっとシビアな話だった。

見たあとに感想を検索したら、トランスジェンダーの話だと言っている人がいてなんとなく納得した。

もちろんクィアを描いた映画ではあるけど、そのような要素も包摂して自己の同一性とか身体と心の同一性をどう自分の中で取っていくか、という普遍的な話でもある。最後にオーウェンが狂ってしまう前の、家を持って家に星条旗を飾る場面、ああやって自分の身体と自分の振る舞いを大きな物語の中に組み入れて生きていけたら楽ではあるんだけど、という

そういう大きな物語との整合性をとる必要があるということに関して、アメリカっぽいなあと思ったけど、様々な人が持つ人だってマイノリティである一面が社会との摩擦を引き起こして摩耗するのはどこでも一緒か…と思いました

抑圧したものはいつか爆発するんだよな〜と思い

声と顔と髪型と生まれと、抱えているものもオーウェンにとてもよく似てる友達がいて、その人と高校のクラスが一緒だった頃は知らなかったその人の中の要素に対して、その頃茶化さずにいれていただろうか?とよく思っている。奴のことを考えながら見てた。もう高校の同窓会くらいでしか会わないけど、元気でいるといいなとずっと思っている…

自分のセクシャリティに対して問われたオーウェンが「よくわからない」と答えるシーン、中村明日美子の同級生で佐条くんの12歳の時に女の子に告白されたときと全く同じで苦しかった。(これ誰に伝わるんだ)

面白かったです!

あおぞら

・最近は特に言いたいこともないような日常を過ごしており(よかったね)、新しくハマるものがあったりして結構元気に過ごしているなと感じる。今日たまたま聴いているこのアルバムが素晴らしく好みでほくほくです。

open.spotify.com

 

・ところで、長野まゆみの「碧空」という小説に「表出されたものだけがすべてで、人の内面なんか芸術に反映するのは低俗」とうそぶく写真家と、彼に惹かれながらもつっけんどんに接する画家の女性が出てくる。この女性は従弟の裸体を「人間なんてただの塊(マッス)」と言って描こうとするような人なのですが、この二人の主張が相反するものなのか、意外と気が合うのか、いまいち美術思想がわからなくてつかめない。

省子は人間の体を「塊」と言いながらも結局凛の裸体は描けないし、有沢は「表出したものがすべて」と言いながら内面の揺らぎを凛に悟らせようとしてくるんですよね。

美術を学んでる作家さんだからこそ、そういう甘い態度を「青さ」の象徴として書いてるんだろうな~と思う反面、もう少し美大生の省子の考えがわかればなあと思うことも多い。

・わたしは三鷹の雰囲気が好きすぎて下連雀に住みたいと本気で考えていたことがあるんですが、(通勤の都合上、却下した)碧空も御殿山とか下連雀のあたりがよく出てくるので、聖地巡礼するゾ!の気持ちでいっぱい。人生のうちいつかは住んでみたい町の一つである。三鷹よ……天命反転住宅とかもあるしね。

 

15:08

本当に美しい思い出ほどどこにも書けないし誰にも共有できないから困るね

 

見るからに「未練」みたいな曲ばかり作っている(ように見える)アーティストっている。スピッツとか、「夏の魔物」くらい初期の曲から「みなと」みたいな曲まで、どうにも一つの同じ喪失を歌にしているように聴こえる、自分には。君島大空もそんな気がする。一つの夕暮れ、一つの喪失、一つの後悔、永遠に繰り返す美しい一瞬、そういうものをずっと歌い続けているように見える。そもそも午後の反射光のコンセプトが「どこかで引き伸ばし続けている愛おしい午後の一瞬への祈りとその可視化」だし…(このコンセプト本当に好きです)横沢俊一郎の1枚目のアルバムなんかも、本当に失恋の曲ばっかりで、アーティスト本人がそういう時期にあったのか?という邪推をしてしまいたくなる。

 

自分なんかはそういう自分の内面をほかのところに、邪推されるような形で掲示することに強い抵抗があるから、もし曲を作るにしても、こんなに切実な曲は書けないだろうなあと思ってしまうな

でも音楽を作るってめちゃくちゃ大変(大変)だし、自分の一番削りたいところを強く削り出したいと思うことがないと作れないものなのかもしれない。

もし架空とは言えないくらいの思いの強さで、ある「誰か」に向けた手紙を書き続ける人を好きになったら複雑だろうな…これこそが邪推ですね

 

霧が覆う広告

カウボーイ疾走、本当に良い曲だ、歌詞が一言一句素晴らしい。

自分の中の考えを一つ一つめくるとその下地にどれだけ小沢健二の歌詞が入っているかということに気づく。ほぼ「薫陶」のレベルだったんすよね

遠心力だけで逃げていく先なんてどこもありゃしない←嫌なことから就職先を見つけようとして失敗してる奴すぎるな。でもやっぱそうなんだなって最近感じている、したくないことを考えてもなにも始まらないみたいです。

 

逃避

長野まゆみの彼等という小説に、「僕がこのまま目覚めなかったら遠いところに連れてってくれませんか」「蓼科高原に行きたい、」みたいなセリフがあって、それを読んで以来蓼科高原にずっと行きたい。

>普通に軽井沢とかの近くっぽい。行こうと思えば行けるけど、そういう物語の中に出てくる場所は、行かないで美しいイメージのままにしておくのがいいのかもしれない、と思ったりする。コーンウォールとかも、コーンウォールの聖杯っていうファンタジー小説を読んでからなんか気になっている場所。

ゆっくり1か月くらいなににも追われずになにも考えずに休みたいな。これ高校1年くらいからずーーっと思ってるんだけど、普通に仕事を続ける限り定年までそういう瞬間って訪れなさそうでウケる。バカンスしたいよ!